大判例

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東京高等裁判所 昭和48年(行コ)35号 判決 1974年4月30日

控訴人

山辺賢蔵

外六名

右七名訴訟代理人弁護士

久保田康史

外四名

被控訴人

東京都

右代表者

美濃部亮吉

右指定代理人

関哲夫

外二名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人らの連帯負担とする。

事実

控訴人ら代理人は、「原判決を取消す。本件を東京地方裁判所に差戻す。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との旨の判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実に関する陳述及び証拠の提出、援用、認否は、控訴人ら代理人において別紙第一及び第二記載のとおり陳述し、被控訴代理人において別紙第三載記のとおり陳述したことを付加するほかは、原判決の事実摘示(原判決の「事実および理由」中、第一乃至第四)と同一である。

理由

当裁判所は、当審における新たな弁論を斟酌しても、控訴人らの本件訴は不適法たるを免れないものと判断する。その理由は、原判決の理由説明と同一であるから、これを引用するほか、次のとおり付加説明する。

控訴人らの本件訴は、被控訴人が昭和四五年四月二八日東京都国立市東四丁目三〇番五号先から都道一四六号線(通称大学通り)の上を跨いで、反対側の同番六号先まで横断歩道橋を架設する旨決定し、これに基づき新日本製鉄株式会社に請負わせて右架設工事を施行する処分を取消す旨の裁判を求める、というのである。

そこで按ずるに、本件弁論の全趣旨によれば、被接訴人は、本件歩道橋設置場所の付近における大学通りの幅員が広く、かつ同場所が学童の通学路に当つているため、交通事故が多発するおそれがあると認め、交通安全施設等整備事業に関する緊急措置法(昭和四一年法律第四五号)に基づき、交通事故の防止をはかり、あわせて交通の円滑化に資するための交通安全施設として、本件歩道橋を設置することを決定し、その工事を新日本製鉄株式会社に請負わせて施行したものであることが明らかであつて、右歩道橋設置の法律的性質は公物たる道路(都道)の管理行為に属し、昭和四五年四月二八日なした歩道橋の設置決定は被控訴人の内部的意思を確定する手続行為であり、被控訴人と新日本製鉄株式会社との間の契約は公益的色彩が強いとはいえ民法上の請負契約と異るものではなく、工事そのものは右契約の履行としての事実行為であつて、本件歩道橋の設置に関する右一連の行為を全体として評価しても、行政事件訴訟法第三条の規定する行政庁の処分その他の公権力の行使に該当しないものと解するのが相当である。

なお、控訴人らは、本件歩道橋の設置が行政庁の処分に該当しないとしても、これにより控訴人らが大学通りを通常の横断歩道によつて横断する生活利益を奪われ、かつ交通公害の増大及び風致美観の毀損などのため、控訴人らの環境権が侵害されることになるので、被控訴人の本件歩道橋の設置行為はその他の公権力の行使に該当するものと解すべきである旨主張する。

しかし、本件歩道橋設置以前において、控訴人らが通常の横断歩道により大学通りを横断していたということは公物たる道路を利用するうえでの反射的利益に過ぎないものであり、これが事実上歩道橋を経由して横断しなければならなくなつたとしても、これをもつて控訴人らの権利乃至法律上の利益が害されるものということはできない。また、一般にひとの健康を保持するうえに必要な生活環境は法律上においても保護されるべき利益と言い得ないわけではないが、本件歩道橋の設置により大学通りを進行する自動車にとつて交通の円滑さが多少促進されるとしても、このようなことは道路施設の整備拡充に通常伴う現象であつて、本件歩道橋の設置が直ちに自動車による交通量の異常な増大を来し、いわゆる交通公害の原因となり、付近住民の生活環境を著しく破壊する結果を招来するものとは、本件に謳われたすべての証拠によつてもこれを認めることはできない。更に、本件歩道橋の設置により大学通りの風致美観が毀損され、付近住民にとつて生活の憩いの場が失われるという点については、控訴人らの主観的、情緒的な感情か或いは道路利用上の反射的利益に過ぎないものであつて、いわゆる環境権という名のもとに本件歩道橋の設置を排除すべき権利乃至法律上の利益と認めることはできない。本件歩道橋については、控訴人らのようにこれが設置に反対する声も聞かれたと同時に、学童の登下校の安全をまもるためにこれが設置を要望する声もあつたことは、本件弁論の全趣旨に照し明らかなところである。本件のような歩道橋の設置に限らず、およそ行政上の施策は、公共の利益の見地から利害得失を綜合考慮して決定せらるべきものであつて、その実施につき万人の賛成、支持を得ることは至難のことであり、ある施策が行われることによつて不利不便を被り、あるいは不快を感じる人々の生ずることは避け難いことである。しかしながら、もしこれらの人々が、環境権の名のもとに、司法上の手段によつて当該施策の実現を阻止することができるものとするならば、行政の機能は麻痺し、徒らに現状をその赴くままに放任する外ない結果に立ち到り、公共の利益を害する結果を招くことは明らかであろう。以上の次第で、本件歩道橋の設置により控訴人らの権利乃至法律上の利益が侵害されるとの理由のもとに右設置行為を公権力の行使であるとする控訴人らの前記主張も失当たるを免れない。

以上説明のとおり、本件歩道橋の設置に関する一連の手続は行政事件訴訟法にいう抗告訴訟の対象となるべき行政庁の処分その他の公権力の行使に該当しないものと解せられるから、右手続の取消を求める本件訴はこの点からも不適法というべきである。

よつて、本件訴を却下した原判決は相当であるから、民事訴訟法第三八四条第一項の規定により本件各控訴を棄却することとし、訴訟費用の負担につき同法第九五条、第八九条及び第九三条第一項但書の規定を適用して、主文のとおり判決する。

(平賀健太 安達昌彦 後藤文彦)

第一 控訴人らの昭和四八年一一月八日付準備書面

一、憲法二五条の歴史的意味

(一) 周知のように我が日本国憲法二五条一項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」として、国民の生存権を保障している。本訴において原告が主張する環境権は、基本的には憲法の右条項ならびにその他の条項(第一三条等)にその根拠を見出すべき権利であるが、この環境権の内容の理解のためには、右憲法二五条の歴史的、社会的背景を考察することが不可欠である。

(二) 近代市民憲法の不可欠の一部である基本的人権保障規定は、さかのぼればアメリカ独立革命、フランス革命にその源を発していること、言うまでもないところであるが、当初その中心を占めたのは、いわゆる自由権(所有権を含む)の保障であつた。

しかし、産業革命以後の資本制生産の急激かつ世界的な進長は、それまでの農業を基本とした社会から工業中心の社会への変展を人間社会にもたらしたのであり、それは、一方で工業生産の飛躍的増大(工業化)、他方で人口の農村から都市への集中、という二つの特徴をもつて表わすことができよう。しかしながら、工業化がもたらしたものは、田園を喪失して劣悪な労働条件の下にあえぐ多数の貧民の群れと、大規模な自然破壊であり、都市化が意味したものは、日照、大気、水、静穏等の自然、ならびに教育、衛生、知識、生活等の文化という、人間をとりまく環境の両面において、一部分の富者に比して著しく恵まれない大衆の存在であつた。このように、資本制生産の増大は、自然、文化の両側面において劣悪な状態の下におかれた多くの社会的弱者を生み出し、ここに、これらの社会的弱者に自然、文化の両側面において人間の名に値する生活を保障すること、即ち広義の生存権を保障することが要求されるに至つたのである。

(三) 右のような生存権保障の歴史を前提として、都市在住の市民にとつて環境とは何かを考えるならば、それを単なる自然環境にとどまらず、教育、知識、余暇等、総じて文化と呼ばれる様々な外的条件をも包み込んだ観念としてとらえねばならないことは明らかであろう。なぜならば、人間が単なる生物学的存在に留まらず自然に飽きかけてこれを作り変えていく営み(=文化)をその本性として有している以上、真の意味で人間に値する生活とは、自然的にも文化的にも十分な条件を満たしたものでなければならないからである。我が日本国憲法が生存権を保障して、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」というのは、右のように理解して初めてその意義が十全に明らかとなるのである。

二、都市の景観と現行法体系

(一) 都市においては、純粋な意味での原始的自然はそもそも存在しえず、多かれ少なかれ人間の手が加えられた自然的環境が存在することになるのであるが、自然と人工とのよく調和した景観は、都市住民のやすらぎの場として、生活の場として、なくてはならないものであり、近代都市がともすれば陥りがちな鉄とコンクリートのジャングルを防ぐための必須不可欠の場である。

都市の中におけるこのような自然と人工との調和のとれた景観は、例えば、整然と区画された街路と街路樹などに典型的に見ることができる。

(二) 都市の景観が住民の生活にとつて密接な関係をもつものであることの結果、現行法体系においても、このような都市美の保存に慎重な配慮が払われている。

すなわち、まず都市計画法においては、その第八条第一項第六号で都市計画地区の一つとして「美観地区」を定め、この美観地区は、同法第九条第一四項によれば、市街地の美観を維持するために定める地区とされている。そしてこの美観地区については、建築基準法第六八条により、地区内の建築物の敷地、構造又は建築設備に関し美観を保持するため必要な制限を、地方公共団体の条例で定めることができるのである。すなわち、現行法は、都市の美観を、法的に保護するに値するものとして明確に認めているのである。

なお、東京都についていえば、宮城を中心とする区域が戦前より美観地区に指定されており、この地区内については屋外広告物条例により屋外の広告物が他の地区よりはるかに厳しく制限されその地区の美観を損わないよう配慮されている。その結果、宮城の周辺地区は、東京都心において最も自然と建築物との調和のとれた、世界に誇りうる美観をなしていることは周知のとおりである。

なお、宮城周辺、とりわけ丸の内側のお堀沿いの道路には、一切歩道橋が架けられていないことに注意すべきである。これこそ歩道橋が都市景観を破壊する存在であることを如実に示すものでなくて一体何であろう。

(三) 右に述べた美観地区の他にも、都市における景観が現行法によつて明文で保護されることがあり、その一つが、都市計画法第八条第一項第七号に定められた風致地区である。この風致地区については、建築物の建築、木竹の伐採等につき都市の風致を維持するため必要な規制を政令の基準に従い、条例で定めることができるとされ(同法第五八条第一項)、それにもとづき「風致地区内における建築物の規制の基準を定める政令」が定められ、それによれば、都道府県知事は、建築物・工作物等の形態・意匠等が周辺の風致と著しく不調和ではない場合でなければ建築を許可できないとされている(同令第三条第一号及び第二号)、これは明らかに、風致地区内における都市景観を保護しようとするものでありこの点においても、現行法が都市の景観を法的に守るに適するものとしていることは明らかである。

(四) さらに「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」は京都、奈良等の古都における景観を保護するために設定されたものである。

同法第一条は、同法が古都の歴史的風土を保存することを目的とすると謳い、同法第二条第二項は、この「歴史的風土」とは、「わが国の歴史的意義を有する建造物、遺跡等が周囲の自然的環境と一体をなして古都における伝統と文化を具現し、及び形成している土地の状況」と定義して、古都における景観そのものを直接に保存の対象とすることを明記している。そして、歴史的風土の保存のため「歴史的風土特別保存地区」が設けられ(同法第六条第一項)、この地区内では、建築物、工作物等については厳しい基準が定められて歴史的風土が破壊されないよう考慮がはらわれている。

(五) これらの他にも、都市における景観保護を目的とした法令としては、都市公園法施行令第一〇条一項、(都市公園の占用物件の外観、配置は、都市公園の風致、美観を害してはならない)、同令第一一条(都市公園占用に関する制限)等があり、また「都市の美観、風致を維持するための樹木の保存に関する法律」は、この法律自体として、都市の美観、風致を維持するための樹木保存を目的として制定されたものである。

(六) 次に、判例をみると、都市景観の保護について正面から判断した判例は見当らないが(むろん、本件原審判決は別である)、類似の問題を扱つたものとして、いわゆる日光太郎杉事件第一審判決(宇都宮地裁昭和四四年四月九日判決、判例時報五五六号二三頁以下)がある。右判決はその理由中において、「景観が害されるという原告の主張は法律上の利益とは言えない」との被告側の抗弁をしりぞけ、「特別保護地区としての景観は、国民の貴重な文化財として、厳正に原状を保存すべきものである。」旨を明言し、国立公園内の一定区域の景観が法律上保護すべき利益であると認めたのである。

そして右事件の控訴審判決(東京高裁昭和四八年七月一三日判決、判例時報七一〇号二三頁以下)も大筋において右第一審判決と同様の判断を下し、「本件土地付近の風致、景観は、国民にとつて貴重な文化財産として、自然の推移による場合以外は、現状のままの状態が維持、保存さるべきである」として控訴を斥けたのである。

右の日光太郎杉事件第一審、第二審各判決はいずれも、国立公園内の一定区域の景観を法的に保護する価値のあるものと認めたわけであるが、その趣旨を敷えんすれば、都市の景観もまた、それが高度に美的、文化的価値を有する限り、右国立公園内の景観と同様に、法的には保護されるべきものとなるのはいうまでもないことである。

(七) 以上で明らかなように、現行法体系は、美観地区、風致地区、歴史的風土保存地区等の地域内における都市の美的景観を保護しようと努めているのであり、そうであるならば、美観地区等の都市景観に匹敵するような都市景観が存在する地域においては、その景観は、住民の文化的生活を保障するものとして法的に保護されるに値するものと言わねばならない。

三、国立大学通りの都市美

(一) 国鉄中央線国立駅に降り立つ人は、両口に広く開ける大学通りの都市美に、誰しも賛嘆の声をあげるだろう。長さ一キロ余にわたるこの直線道路は、約五〇メートルのゆつたりとした道巾をもち、両側にいちようと桜の大木が並列する美事な並木を配しており、グリーンベルトをいろどる四季の花々が道行く人々をなごませてくれる。この大学通りは、ごく一部の例外を除いてついに都市計画と呼ぶに値する歴史を持たなかつた日本の都市の中で、街路と自然との渾然一体となつた美しさ、とりわけ、街路樹の直線美において、まさに異彩を放つものである。

また、この大学通りは、大正年間に国立の町が開かれて以来、付近の住民がまるで我が家の庭の如く愛して、木や花を植え、手入れに気を配り、いつくしみ育てついに今日のような自然と人工の調和のとれた街路を作り上げたという歴史がある。現在でも、大学通りに面した家の住民は、グリーンベルトの管理を自ら行なつて、大学通りの景観の維持にはげんでいるのである。

(二) 右に述べたように、我が国でもまれに見る都市美とこれを守り育てた住民の伝統とを兼ね備えた大学通りは、その実質的美観において美観地区、風致地区に指定されるに値する内容を有し、またその歴史において、歴史的風土特別保存地区に匹敵する伝統を有する。京都、奈良などの社寺仏閣が、祖先が我々に残した文化的遺産であるならば、この大学通りは、我々が我々の子孫に残すべき文化的遺産であると言わねばならない。いやむしろ我々は、この大学通りを子孫に守り伝えるべき義務を負つているとさえ言えるのである。

(三) ところが、本件歩道橋は、このような直線美を誇る大学通りを、無残にも真二つに引き裂いてしまつたのである。南北いずれの方向から見ても大学通りの直線的美観はこの歩道橋によつて完全に分断されてしまい、もはやかつての大学通りの気の遠くなるほどはるかな彼方へと続く伸びやかさは完全に失われてしまい、歩道橋の区切る狭小な空間に閉じ込められたあわれなみすぼらしい道が残るのみである。緑あふれるグリーンベルトを横切る青と白のグロテスクな鉄塊は、一体何と表現したらよいものか。この歩道橋が国立市民の誇る大学通りの都市美を徹底的に破壊していることは、誰の目にも明らかである。

四、環境権について

(1) 環境権論の社会的背景

(一) 環境権という観念は、一九六〇年代に入り無秩序な地域開発や事業活動により環境の汚染や破壊が顕著になつた結果、環境の保全の重要性が再認識されアメリカにおいて判例を通じて形成されたものといわれている。

(二) 我国においては、昭和四六年に公害対策基本法が制定され政府もようやく公害対策にのり出したが、それにもかかわらず公害は激化する一方であり、又時あたかもイタイイタイ病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、態本水俣病等の公害訴訟により公害による悲惨な人身被害が誰の目にも明らかになり、ここに従来の公害対策の基本的視点が再検討を迫られることとになつた。

再検討の第一点は、公害現象は社会・済経の発展に伴う必要があるという思想、あるいは国民はある程度公害現象を受忍しなければならないという思想に対する反省であり、もう一点は公害対策は被害が顕在化してからではもはや遅く、潜在的被害の段階での阻止、即ち環境そのものの保全をはからねばならないということであつた。

(2) 環境権の提唱

(一) かかる社会的背景のもとで、昭和四五年九月日弁連人権擁護大会において、我国において初めて環境権理論が提唱されるに至つた。この環境権の意義、性質、機能といつた点については原審で述べているとおりであるが要約すると以下のとおりである。

即ち、良好な環境は住民全体の共有財産である。(ここに環境とは大気・水・日照等の自然的環境に限定されず、われわれの生活を取りまく道路・公園等の社会的環境、われわれが祖先から継承してきた遺跡等の文化的環境も含む)それ故住民一人ひとりはかかる良好な環境にとりかこまれて健康で、文化的な生活を営む基本的権利を有するのであつて、一部の者がその事業活動等によりみだりに地域の環境を汚染、破壊することは住民全体の共有財産に対する侵害であり、かかる場合住民は環境破壊行為をやめさせる権利がある、というものであつた。

(二) 以来、かかる環境権が、少くとも憲法上の基本権であり又法文解釈の指導理念であることは広く承認されるに至つた。現在の主要な議論は環境権を直接裁判で主張しうる具体的権利としてどのような形でどの程度まで承認すべきか否かという点である。

(3) 環境権をめぐる裁判例の動向

(一) 実体法解釈の指針としての環境権

(イ) 日光太郎杉事件

宇都宮地判 S・四四・四・九行裁例集二〇巻四号三七三頁

東京高判  S・四八・七・一三判例時報七一〇号二三頁

(ロ) 臼杵セメント事件

大分地判  S・四六・七・二〇判例タイムズ二六五号一〇四頁

(イ)判決は一・二審とも道路拡幅の利益よりも自然的文化的環境保持の利益に優越した法的価値を認め、道路拡幅事業の為に該土地を収用してその有する文化的価値を毀損することは土地収用法二〇条三号にいう「土地の適正かつ合理的な利用に寄与するもの」とは認められないとしたものであり、又、(ロ)判決は、公有水面埋立法四条二号が埋立てを認可するための要件としてかかげる「埋立ニ因リテ生スル利益ノ程度カ損害ノ程度ヲ著シク超過スルトキ」に該当するといえるためには、「造成される埋立地の価格や土地に建設される工場のもたらす経済的利益の程度と埋立により蒙る権利者の損害の程度とを単に計算的に比較検討するだけでなく、工場建設がその地方住民の生活環境におよぼすもろもろのマイナス面の影響の有無程度をも検討」して決める必要があるとし、結局右にいう大気汚濁等による生活環境にあたえる「マイナス面」を重視して本件の場合前記要件に該当しないとしたものである。

いずれの判例においても行政法規の定める法律要件の認定にあたり環境保全の利益を重要な要素として承諾している。環境権はこのように環境保全の利益を行政上の重要な法価値に高め行政裁量を限界ずけるものとしてまず機能した。

(二) 差止請求の根拠としての環境権

(イ) 広島環境衛生センター事件広島地判 S四六・五・二〇 判例時報六三一号二四頁

広島高判 S四八・二・一四 判例時報六九三号二七頁

(ロ) 阪神高速道路大阪・西宮線工事禁止仮処分事件

神戸地裁尼崎支部決 S・四八・五・一一判例時報七〇二号一八頁

(イ)判決はし尿処理施設が建設されて操業を開始した場合には、水質及び大気が汚染され、申請人(付近住民)らの生命身体が害されるおそれが確実であり、本来健康は財産的補償に親まないものであるとして、あらかじめかかる侵害を予防する建築禁止の仮処分申請を認容したものであり、又、(ロ)決定は結論的には高速道路建設を一定の規制の下に許容したものであるが、その前提として、住民は環境利益が不当に侵害される危険が生じた場合には、その侵害を未然に防止する為の具体的差止請求権(環境利益不当侵害防止権)を取得するとしたものである。

(イ)判決は世上一般に「環境権なる表現こそ用いていないが、当然にこれを肯定することを前提としている」(判例時報該判決のコメント)と受けとめられたが、差止めの根拠を水や大気汚染自体ではなく、汚染の結果としての健康被害のおそれに求めていることから、環境権を承認したものか否かについて議論をよぶものであつた。しかるにその後にでた(ロ)決定は、この点について明白にその環境利益不当侵害防止権を生命健康に対する危害と切り離された環境の不当悪化の危険それ自体から発生するものとしており、環境権をその基本において承認するに至つた画期的な裁判例であつた。

(三) 取消訴訟に於ける訴えの利益と環境権

国立歩道橋事件執行停止申請に対する決定

東京地決昭和四五年一〇月一四日

行裁判例集二一巻一〇号一一八二頁

平面通行権と環境権の侵害をもつて近隣住民に原告適格を認めた。

(四) まとめ

我々が主張するとおりの意義・性格・機能をもつものとしての環境権を明白に認めた裁判例は未だ存在しない。

しかしながら、以上みてきたとおり、判例は既に環境権をもつて実体法解釈の指針にとどまらず、制約付きではあれ差止請求の根拠として承認するものさえあらわれている段階にある。

裁判例は未だ少ないが、環境権をもつて取消訴訟の訴えの利益とすることには(差止請求の根拠とすることに消極的な論者にとつても)最近の訴えの利益の緩和傾向とも相まつて異論は少ないといえよう。

(例えば 原田尚彦・ジュリスト四九二号二三七頁「公害行政と環境権」、同・判例タイムズ二六五号七頁「環境権と裁判所の役割」、猶この点については後に詳論する)

五、生活道路の破壊と環境権の侵害

(一) 大学通りは生活道路である。

一般に道路はその機能から通過道路と生活道路とに分類できる。

通過道路とは、生産・流通活動にともなつて発生する物の流れや、住宅地と職場・レクリェーション地域を結ぶ人の流れをさばくための道路であり、生活道路とは、住民の日常生活、すなわち通勤・通学、買物、散歩、レクリェーション、会話、遊び等にいたる様々な活動に供せられる道路である。日本の道路は、歴史的に、江戸時代まではその大部分が生活道路であり、ここでは、おかみさんの会話、子供のまりつき、石けり等の遊び、夕涼みから縁台将棋に至るまで、ありとあらゆる人間の日常的営みが繰り広げられ、地域住民の交流の場となつていた。

ところが、明治以降の日本の「近代化」は、これらの生活道路に車をわりこませ、ついては、その生活道路としての機能を無理矢理に切捨てて、通過道路へとその性格をねじまげてしまつた。今日の日本における幹線道路の大部分は、実態は生活道路としての機能を果すべきものであるにもかかわらず、歩道を縮少し、並木を切倒し、歩道橋をかけることにより、生活道路としての機能を犠牲にして、通過道路となつているのである。

本件の国立市大学通りもまた、全体として生活道路としての役割を今日まで果してきた。並木とグリーンベルトに代表される自然の恵み、幅約五〇メートルという余裕、他の道路に比して自動車交通がはるかに少く排気ガス、騒音、交通事故等の危険が少ないこと、等の様々な条件により、大学通りは、徒歩通勤・通学や買物に、あるいは遊びや散歩にと、付近住民の日常生活の場として利用され、愛されてきたものなのである。また、公園を全くもたない国立市民にとつて、その大学通りは、公園としての機能をも有する道路、いわば公園道路としての意味も有するものである。

原告らが、この大学通りを日常生活の場として利用している付近住民の一員であることは、言うまでもない。

(二) 生活道路と環境権

原告ら含む地域住民が右のようにして大学通り全体を日常生活に密着した生活道路として使用・利用していることは、環境権の一環として法的に保護されるべき利益であると言わなければならず、このような地域住民の道路利用を侵害することは違憲である。

なぜならば、このような生活道路における地域住民の生活は、その住民自身の住居内における日常生活と密接・不可分の関係にあり、その住居付近の環境(日照、大気、静穏、眺望、等)、が保護されるべきであるとの同様な意味において、生活道路の環境もまた法的に保護されねばならないからである。さもなくば人は、その住居内での生活の延長上にあるところの生活道路の利用において、日照妨害、大気汚染、騒音等の環境破壊にさらされることを余儀なくされ、かくては、たとえその住居付近の環境のみが維持されたとしても、その人の生活は、全体としては極めて不健康で非文化的なものにならざるをえないであろう。

(三) 本件歩道橋による生活道路の破壊

本件歩道橋設置処分は、右のような大学通りの生活道路としての環境を破壊するもので、違法である。

そもそも歩道橋の設置が一般に通過車のスピードアップを招くことは周知のことであり、運転者の心理としても、歩道橋付近を走行するときは、路上横断者がないものとして安心して速度を早めることが、経験則上十分に予想できる。また歩道橋の設置は、それまでの生活道路から通過道路へと大学通りの性格が一変したことを意味しており、事実、大学通りを南北に延長して他の幹線道路と連絡する計画が東京都において設定されている。こうして、歩道橋の設置は必然的に、自動車の速度の増大、それに伴う交通事故発生の危険の増加、交通量の増大とその結果としての排気ガスにる大気汚染等をもたらすことは明らかである。原告ら住民が、緑と澄んだ空気と静けさに恵まれた生活道路として利用してきた大学通りは、本件歩道橋設置により、全体として、自由に横断することもできず、静かな散歩を楽しむこともできず、排気ガスと騒音にさらされ絶えず交通事故の危険におびえて歩かねばならないような通過道路へと変わつてゆくのである。

六、原判決の誤り

(一) 原判決は「……生活環境をその受忍すべき限度をこえて破壊されないことについて有する利益は、法的保護に値する利益である」と判旨し、かつ、右の受忍限度を超えた場合には「人がその生活環境の保護について有する利益」は、行政事件訴訟法九条の「法律上の利益」に該当することを認めている。右の論旨は、言葉こそ違え、控訴人の主張する環境権についてその権利性を承認したものといい得るであろう。問題は、その法的根拠はどこにあり、その受忍限度とは一体いかなるものであり、それはどういう手続で判断されるかということである。

この点について、原判決は極めてあいまいであり、かつ、多くの点で誤つている。

原判決は「太陽、空気、水、静けさその他人間をとりまく諸々の生活環境を良好な状態に保つことは、健康にして快適な生活のために不可欠な事柄であ(り)……人がそのような生活環境をその受忍すべき限度をこえて破壊されないことについて有する利益は法的保護に値する利益である」と述べているが、右の趣旨は憲法二五条の「健康で文化的な生活を営む権利」に由来するものであり、それが認められるに至つたゆえんは、本書面四に述べているとおりである。そうだとすれば、原判決のいう受忍限度は、人の生命、健康が害される段階ではなく、未だそれに達しない前に設定されているものと考えられなければならない。

ところで、原判決は、「風致・美観の損傷は、多分に主観的・情緒的なものであり、その損傷は、付近の住民の健康にして快適な生活を害するという性質のものではな(い)」と述べて、風致・美観が本来法的保護の対象たり得ないものと考えている。成程、風致・美観が人の主観によつて多少とも差があることは事実であるが、二で指摘したように諸々の実定法が風致・美観の保護のために設けられている今日、本来的にそうしたものが法的保護の対象にならないとするのは、全くの誤りである。この点は、前記日光太郎杉事件の判決に照らしても明白なところである。更に、原判決は「……太陽・空気・水・静けさその他人間をとりまく諸々の生活環境を良好な状態に保つことは、健康にして快適な生活のために不可欠な事柄であ(る)」と述べているのであつて、右の論旨からすれば「人間をとりまく諸々の生活環境」のなかには当然風致・美観が含まれているものと解すべきなのである。

従つて、右の点について原判決は、基本的な誤りを有するものといわなければならない。

次に原判決は、いわゆる受忍限度論を採用しながら、本件歩道橋設置によつて保護されるものの内容その重要性等については一切言及していない。周知のとおり、受忍限度論というのは、行政庁或は私企業が建設しようとするものの種類、その公共性の存否程度、代替的手段の存否等と、右建設によつて破壊され或は失われるものの重要性とを比較考慮するという考え方である。

従つて、その建設されようとするものが、公共性に乏く、或は必要性の乏しいものであれば、失われるものの利益は、極端に大きくない場合でも受忍限度を超えることはあり得るのである。

本件に於ては、控訴人が原審で主張しているように、本件歩道橋は、何んの必要性もなく、又、他の代替手段が十分存在するにもかかわらず計画されたものであつた。従つて、原審のいう受忍限度論に立つても当然訴えの利益が認められるべきものである。

次に、原判決は、「本件歩道橋が一つ設置されたからといつて、そのことだけで自動車交通量とその走行速度に著しい変化をもたらすとは到底考えられ(ない)」と述べて交通事故発生の危険性の増加、自動車の排気ガスによる大気汚染の進行等の被害発生と本件歩道橋の設置の因果関係を否定している。しかし、歩道橋の設置は、自動車の走行速度を増すためのものであるから著しいスピードアップのあることは理の当然であつて、この点の原判決は明白な誤りである。又、大幅なスピードアップが可能な場所に自動車交通が集中してくるのも又、経験則上明らかな点であつて、この点に於いても原判決の誤りは明白である。そして現に歩道橋設置後、大学通りに於ては自動車の交通量が目にみえて増え、そのスピードは著しく増大している。本件歩道橋設置以前は、そのどこでも自由に横断できた公園道路は、今や失われてしまい、遂に被告提出の三〇号証の三及び三一号証の示すごとく大学通りのあらゆる個所に信号機や横断歩道を設置しなければならないほど危険な道路に変化した(本件歩道橋以前に存していた横断歩道は一ケ所、信号機は二ケ所である)。

そして交通量の変化は排気ガスの増大をもたらし、その結果、桜やいちようの並木が損傷され、従前原告らが享受していた静かな美しい大学通りの環境が破壊されていることは前に述べたとおりであり、この点原判決は明らかに不当である。

(二) 原告らは、いずれも大学通り付近に居住し、通勤、買物、散歩その他市民としての様々な日常活動のために、大学通りを通行・横断していることは従前より主張しているところである。

大学通りの横断については、本件横断歩道橋設置個所を横断することもあり、又、必ずしも右個所を横断する必要のないこともあるが、本件横断歩道橋設置個所を横断する場合には、長さ八四メートルの本件歩道橋を渡るか、交通事故に遭う危険を侵して本件歩道橋の下平面を横断するか(この場合一四メートル)、又は右いずれをも避け他の場所を横断しなければならない。

そして、原告らの有していたこれら公道平面の利用は、法的に保護される国民の生活利益であることは既に認められているところである(名古屋地裁昭和四七年九月二二日判決)。

原判決は、原告等が本件歩道橋設置場所付近で横断歩道上を平面歩行して横断することができなくなつたことを認定しながら、それが「日常受忍すべき限度内」であると判旨している。しかし、(2)に於て述べたように受忍限度論というのは、相対的な比較考量の方法であるから、本件歩道橋が無価値なものである以上、原告等が例え本件歩道橋設置付近での大学通りの横断が頻繁でないとしても、当然に右歩道橋設置処分を争う法律上の利益を有するものである。

第二 控訴人らの昭和四九年二月二六日付準備書面

一、環境権侵害による原告資格

良好な環境を享受することが、単なる事実上の利益に止まらず、法的な権利(=環境権)として認められるべきものであることは既に詳述したころである。右権利は、憲法二五条並びに一三条にその基本的な根拠を有するのであるが、東京都民である原告等に於ては東京都公害防止条例の左記の如き規定にその実定法上の基礎を有するのである。即ち、右条例は、その前文に於て第一原則として「すべて都民は、健康で安全かつ快適な生活を営む権利を有するのであつて、この権利は公害によつてみだりに侵されてはならない」と定め、第二原則に於て、都民が他の都民の右の如き権利を侵害してはならないことを、第三原則に於ては東京都が、「都民の健康で安全かつ快適な生活を営む権利を保障する最大限の義務を負う」と定めている。そして当然のことながら、東京都が非権力的行政作用の一環として公共施設等の建設にあたる場合には、右第二原則に従い、都民の健康で安全かつ快適な生活を営む権利を侵害してはならないのである。従つて、本件歩道橋設置に於ても、原告等は、右東京都公害防止条例前文第一原則により被告に対して健康で安全かつ快適な生活を営む権利を主張でき、被告は、同前文第二原則に基づき、右権利主張を認める法的義務を有するのである。従つて、原告等は、憲法一三条、二五条並びに、東京都公害防止条例前文に基づき、本件取消訴訟の原告並びに訴えの利益を有するものである。

二、平面交通権と原告資格

(一) 一九世紀的な夜警国家の理論に於ては、国家と市民社会は截然と区別されていた。そして、国家が市民の利益を奪い或は不利益を課すのは、具体的な個々の市民に対して、国家が高権的な権力を発動する場合に限られていた。それ以外の領域での国家の積極的な活動は存在しなかつた。従つてそのような時代には、個々の市民を名宛人として、高権的な意思の発動としてなされるところのいわゆる古典的な意味での「行政処分」に対してだけ救済の道を開くだけで、司法的な救済としては十分であつた。

即ち、この時代には、抗告訴訟の原告適格を有するものは、権利の侵害を受けた者に限定されていたし、そのことは一定の客観的合理性が存したのである。

しかるに資本主義の矛盾が激化することによつて、市民社会をその見えざる神の手に委ねることは不可能となつた。

国家は、経済生活の面で或は、社会生活の面で、積極的に国民の生活に介入することになつた。そしてその介入の手段も、さきに述べたような高権的な意思の発動としての行政処分だけでは足りず、或は行政立法という形で画一的に権利を認定剥奪し、或は行政指導という形で、或は財政的な援用という形で行政目的の達成を目ざし、或は自ら公共施設の建築に携わりもするようになつたのである。

以上のように、国家(乃至地方公共団体)が、様々な形で市民社会に介入するようになるにつれて、市民が国家の諸活動によつて被る被害も多方面にわたるようになつた。

そして、被害の程度の面に於ては、各個人個人の被る不利益の程度は、従前の高権的な立場でのいわゆる行政処分の場合に比して低いけれども、それが広範な市民に対して発生する結果、全体としてそれを放置することが著しく正義に反する場合が生じてきたのである。従つてそのような場合には、一個人の被る不利益の程度はやや低くても、これの原告適格を認め、その訴訟の中では直接的には他の人に生じた不利益をも主張させなければならないのである。

(二) 本件歩道橋の設置によつて、老人は大きな不利益を受けている。特に、本件歩道橋の近くには、福祉会館があつて、多くの老人が集まるが、市のマイクロバスは週一回しか運行されていないため他の日はバスで来ざるを得ない。そして、バスを利用する老人達は、長い坂のある本件歩道橋を渡ることを余儀なくされているのである。又福祉会館では週に一回薬湯をたてており、その日には足・腰の悪い老人が多勢集まるのであるが、その人々にとつては歩道橋を渡る苦痛は大変なものがある。

(三) 従つて、原告等の被る不利益については、原判決認定の如きものであつても、原告等の原告適格は十分肯定されるものといわなければならない。

第三 控訴人の昭和四九年一月一七日付準備書面

控訴人の昭和四八年一一月八日付準備書面に対し、被控訴人は左のとおり陳述(事実の認否)する。

一 控訴人の右準備書面の第二項について

同項(二)のうち、宮城を中心とする区域が戦前より美観地区に指定されていること及び丸の内側のお堀沿いの道路には歩道橋が設けられていないことは認める。

二 同準備書面の第三項について

同項(一)のうち、

(1) 大学通りの巾員が約五〇メートルであることは否認する(都道の巾員は本件歩道橋の存する場所において18.18メートルであり、市道及びグリーンベルトを含む巾員が谷保駅付近を除き約四四メートルであることは被控訴人の昭和四五年一一月四日付答弁書の第二の一で述べたとおりである。なお、乙第二八号証参照)。。

(2) 大学通りの延長が一キロメートル余に及ぶこと及びグリーンベルトに樹木が植えられていることは認める。

(3) その余の事実は不知。

三 同準備書面の第五項について

同項(三)のうち、大学通りを南北に延長し他の幹線道路と連絡する計画が東京都において設定されているということは否認する。

四 同準備書面の第六項について

(一) 同項(一)のうち、

(1) 本件歩道橋設置以前に大学通りに存した横断歩道が一か所のみであることは否認する(本件歩道橋設置前(事実上一般の用に供せられた昭和四五年一一月一九日以前)に大学通りに存した横断歩道は、右歩道橋のすぐ両側にあつたものを含めて七か所であり、歩道橋設置後において存する横断歩道は九か所である。乙第三〇号証の三、同第三一号証及び被控訴人(被告)の昭和四七年一二月六日付準備書面参照。)。

(2) 本件歩道橋設置以前において、大学通りに信号機が二か所に存していたことは認める。

(3) その余の事実は争う。

(二) 同項(二)のうち、本件歩道橋の長さが八四メートルであること及び同歩道橋の下平面図の(都道の)巾員が一四メートルであることは否認する(本件歩道橋の延長は123.80メートルであり、都道の巾員は18.18メートルである。被控訴人(被告)の昭和四五年一一月四日付答弁書第二の一及び二の(七)(1)並びに乙第二八号証参照。)。

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